「AIが作成しました」だけで十分か
生成AI時代の文責と責任主体
最近、インターネット上の記事や翻訳文などで、「この文章はAIにより作成しました」「この翻訳には生成AIを使用しています」といった表示を目にする機会が増えた。
生成AIを利用した事実を開示することには、成果物の作成過程を明らかにするという意味がある。用途、契約、職業倫理や読者の合理的な期待によっては、AI利用の表示が重要となる場合もある。
しかし、「AIが作成した」と表示するだけで、その成果物についての責任をAIに負わせることができるわけではない。
誰が書いたかではなく、誰が責任を持つのか
文章については、従来から「文責」という考え方がある。
補助者が下書きを作成した文章であっても、その内容を確認し、自己又は組織の名で公表することを決定した者が、その記載内容について責任を負う。
法律事務所や特許事務所でも、補助者が提出書面の下書きを作成する場合がある。しかし、対外的な専門家責任の中心は、通常、その内容を確認し、自己の名で提出した弁護士や弁理士にある。
生成AIを利用した場合も、基本的な構造は変わらない。
生成AIは文章を作成する手段にはなり得るが、通常、それ自体が内容を確認し、自己の名で公表し、法的責任を負う主体となるわけではない。
したがって、
この文章はAIにより作成しました。
という表示は、単に作成手段を示しているにすぎない。
本当に重要なのは、
誰が内容を確認し、誰の判断で利用又は公表し、誰がその行為について責任を負うのか。
という点である。
AI利用の表示は責任表示ではない
AI利用の表示自体を否定する必要はない。
問題は、AI利用の表示が、内容についての責任を曖昧にするために使われかねないことである。
例えば、
AIによる翻訳であるため、内容の正確性を保証しません。
とだけ表示されている場合、読者には、誰が原文との整合性を確認したのか、そもそも誰も確認していないのかが分からない。
これに対し、
本翻訳の作成には生成AIを利用しています。内容は当社が確認し、公表しています。
と表示すれば、AI利用の事実と、公表主体の責任とを区別して示すことができる。
もちろん、このような表示をした者が、あらゆる法的責任を単独で負うという意味ではない。具体的な責任主体は、問題となる法律関係や各当事者の関与によって異なる。
それでも、AI利用を明示することと、自己又は組織が成果物を確認して利用することとは、別の問題である。
AIを利用したという事実だけを理由として、自らの行為について当然に免責されるものではない。
文章以外の成果物についても同様である
この問題は文章や翻訳に限られない。
生成AIによる画像、映像、音声、プログラムその他の成果物についても、誰が生成操作を行ったかではなく、誰がその成果を選択し、公表、配布、販売、業務への組込みその他の形で第三者に提供することを決定したのかが重要となる。個人的な閲覧や試用にとどまる場合とは区別して考える必要がある。
もっとも、著作権侵害、名誉毀損、個人情報、営業秘密、製造物責任などについて、責任主体を一つの基準だけで決めることはできない。
例えば、著作権侵害では、誰が複製、公衆送信、譲渡等の行為を行ったかが問題となる。プログラムの提供では、契約上の義務、セキュリティ対策や過失の有無が問題となる。事案によっては、AIの開発者や提供者の責任が別途成立する場合もある。
したがって、誰が成果物を採用したかという事実だけで、すべての権利と責任が決まるわけではない。
しかし、
誰がAI生成成果の利用又は提供を決定し、どの程度その内容を管理又は確認できたか。
という視点は、各法領域において責任主体を検討する際の重要な事実の一つになる。
AIは責任を引き受ける主体ではない
生成AIの性能が向上すれば、人間がほとんど手を加えることなく、文章、画像、プログラムその他の成果物を得られる場面は増えていくと考えられる。
しかし、生成の大部分をAIが行ったとしても、その成果を社会に提供するかどうかを決定するのは、通常、人又は組織である。
その者が成果を十分に確認しないまま公表したのであれば、そのような公表を選択したこと自体が、その者の判断である。
生成AI時代に特に必要なのは、誰がその成果物を利用し、誰の名で社会に提示し、誰がその行為について説明し責任を負うのかを明確にすることであると思う。
この責任主体という視点は、さらに、AIが人間の創作的な寄与なしに発明を生成した場合に、その成果を誰に帰属させるべきかという問題にもつながるのではないだろうか。
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