日米特許実務の構造変化について
― 日本出願を基礎とする米国特許出願への影響 ―
先日(2026年2月)、日米の特許実務者があるまる会合で米国特許実務の急激な変化について詳細な報告があった。特にPTAB(Patent Trial and Appeal Board)におけるIPR(Inter Partes Review)の運用が大きく方向転換しつつある点は、制度の重心が行政中心から裁判所中心へと移動しているものと理解した。
なお、本稿は単なる米国制度の紹介ではなく、本稿の前提は、日本出願を基礎とし、パリ優先やPCTを経て米国へ展開する出願(すなわち、日本で特許出願代理人等が明細書を作成し、それを基礎として米国出願を行い、将来米国で権利行使や防御を行うというモデル)を念頭に置く。
1.米国:PTABの後退と地裁回帰
かつてIPRは、特許無効化の主戦場であった。迅速かつ専門的であり、地裁訴訟より低コストであったため、実務上は極めて重要な戦略的手段であった。
しかし現在、IPRは申立人にとって不確実性の高い制度へと変化しつつある。
(1)裁量的却下の増加
従来は、無効理由の実体的な強さが重視された。しかし近時は、審理の中身に入る前に裁量により却下されるケースが増加しているとの指摘がある。これは、「良い無効理由があれば審理してもらえる」という予測可能性を弱める。
(2)“settled expectations”理論
一定期間存続してきた特許について、権利者に「後から覆されないという期待」があるべきだという考え方が示されている。この理論が広がれば、特許の存続年数自体がIPRの可否に影響する可能性がある。報告者によれば、具体的な年数の開示等はないものの判例の蓄積等から概ね6年程度との指摘があった。
(3)機関決定率の低下
IPRは、申立て後にPTABが「審理を開始するかどうか」を判断する。近時はこの機関決定率が低下しているとの報告がある。申立てをしても相当数が本格審理に進まない可能性があるということである。
(4)規則化による提起制限の拡張
運用上の制限を規則として固定化する動きも見られる。提起制限やエストッペルの範囲が拡張されれば、IPRを提起した結果として地裁での無効主張まで制限されるリスクが生じる。
統計データは別途整理するが、機関決定率や裁量的却下件数の推移を見れば、IPRがかつてのような「安定した早期無効手段」ではなくなりつつあることは明らかである。
その結果、無効主張の重心は再び地裁へと回帰する。
2.日本:裁判所の積極化
米国だけが変化しているわけではない。日本でも裁判所の役割が質的に変化している。
(1)医薬事件 ― クレーム解釈の広がり
有効成分の解釈を巡る高裁判断では、文言上明示されていない付加塩を包含すると判断された。さらには、補正履歴があっても直ちに包袋禁反言の法理による限定解釈を受けることもなかった。
これは、従来のクレーム解釈論の原則から一歩拡張し、明細書の目的記載や技術的背景がクレーム解釈に強く影響し得ることを示している。
(2)SEP事件 ― 交渉姿勢の評価
SEP事件では、当事者の交渉態度が差止可否に直結した。裁判所はFRAND算定にも踏み込み、実質的に交渉の方向付けを行っている。
単に技術的侵害の有無を判断するだけでなく、交渉履歴の管理が法的評価の対象となる時代である。
3.共通する構造変化
日米の動きを並べると、共通する構造が見えてくる。
- 行政的無効手続の相対的後退
- 裁判所の主導性の強化
- 交渉履歴と証拠管理の重要性の増大
すなわち、近似は、制度の重心が「審査・審判(=行政)中心」から「裁判(=司法)中心」へと移動しているように感じられる。
4.日本出願を基礎とする米国出願への影響
日本出願を基礎として米国へ展開する場合、明細書は日本で作成される。米国出願はその翻訳でしかなく、予備補正やバイパス出願等でブラッシュアップするとしても多くの場合、実質的な補強ではなく、クレーム表現の修正・補強にとどまる。
IPR中心の時代であれば、刊行物対比の強さが重視された。しかし地裁中心となれば、より広範な観点が重要になる。
- クレーム解釈耐性
- 用語定義の明確性
- 技術的効果の裏付け
- 実施例の厚み
- 代替態様の網羅性
- 補正履歴の整合性
これらはいずれも出願当初の明細書の記載であり、基礎出願されたあと、事後的に補強できるものは一つもない。すなわち、将来の米国地裁訴訟を想定し、日本出願における明細書作成段階から対処しておく必要がある。「米国用に後で整えればよい」という発想はもはや危険である。
5.紛争時の影響
(1)権利者側
IPRが通りにくい環境は一見特許権者側にとっては有利に見える。しかし、
- 交渉履歴の管理
- 提案条件の文書化
- 技術的効果の立証準備
がより重要になる。
(2)被告側
IPRに依存しにくい場合、無効主張は米国特許庁(PTAB)よりも地裁で全面展開する必要がある。そのためには、
- 早期の無効資料収集
- 技術資料の証拠化
- 日本国内文書の整理
が前倒しで必要となる。ここでも、日本出願段階の記載内容が決定的に効いてくる。
6.結局何かが変わったのか(日本国弁理士の視点)
以上の構造変化を踏まえると、「では日本の弁理士は何を新たにすべきか」という問いが生じる。
しかし率直に言えば、挙げられる実務項目自体は目新しいものではない。
- 用語定義の明確化
- 技術的効果の具体化
- 実施例の厚みの確保
- 将来のクレーム解釈リスクの点検
- 補正履歴の整然さの維持
- 交渉履歴の管理
いずれも、従来から当然に意識されてきた基本事項である。
では何が変わったのか。
それは、「これらを疎かにした場合の帰結が重くなった」という点である。
IPR中心の時代には、一定程度、行政的無効手続で整理されるという緩衝装置が存在していた。しかし地裁中心の構造に移行すれば、明細書の質や履歴管理の不備は、そのまま高額損害賠償や差止リスクに直結し得る。
今回の変化は、新しい実務を要求しているというよりも、従来から重要であった基本の重要性を、改めて突きつけている。
7.結語 ― 基本を基本として扱う
制度は振り子のように動く。米国ではPTABの影響力が相対的に低下し、日本では裁判所の関与が強まっている。
しかし、今回の構造変化を前にしても、実務の本質が劇的に変わるわけではない。
求められているのは、
- 用語を曖昧にしないこと
- 技術的効果を具体的に書くこと
- 補正履歴を整然と管理すること
- 交渉を記録し、説明可能な形にすること
いずれも、従来から重要であった基本である。
違いがあるとすれば、それらを怠った場合の帰結が、より直接的に、より大きくなるという点である。
そしてその「当たり前」は、立場ごとに異なる。
代理人は代理人として、
企業の知財担当者は担当者として、
経営部門は経営部門として、
発明者・技術者はその立場として。
それぞれが、自らの役割に応じた知識を身につけ、責任を理解し、基本を丁寧に積み重ねる。
制度が揺れても、この姿勢は揺れない。
むしろ、制度が揺れるときほど、基本の価値は増す。
今回の日米の動きは、そのことを静かに示しているように思われるのである。