NIST CSF 2.0 と実践的な運用体制の構築に向けて
1. はじめに サイバーセキュリティーの重要性
サイバーセキュリティリスクへの対策は企業規模を問わず、常に高い意識をもち、必要であればすぐにでも実際の行動を伴う有効な対策を講じなければならない、喫緊かつ永続的な課題であることは広く共通認識として広がっていると考えられる。企業のコア技術・事業戦略・契約情報など、経営に関わる極めて機微な情報を日常的に取り扱う特許事務所・法律事務所もまた、高度な知識インフラの集積点であり、サイバーセキュリティーリスクを考慮した適切な対応が求められている。
また近年は AI を取り込んだサイバー攻撃が常態化し、ランサムウェアも単なる暗号化ではなく:
- 情報の窃取
- 公開による脅迫(double extortion)
- さらに第三者への攻撃へ利用(triple extortion)
へと構造が高度化している。
こうした情勢の中で多くの事務所が IT を外部委託しているが、サイバーリスクの最終責任を移転することはできない。この原則を直視することが、専門職としての第一歩である。
その指針として国際的に受け入れられ、実務にも落とし込みやすいのが NIST Cybersecurity Framework(CSF:サイバーセキュリティーフレームワーク) であり、2024年に CSF 2.0 へとアップデートされた。
2. CSF 1.1 → CSF 2.0(変更点と重要性)
(1)最大の変更点:Govern(ガバナンス)の独立と重心移動
CSF 1.1では「Identify / Protect / Detect / Respond / Recover」の5つで構成されていたが、
CSF 2.0ではこれに “Govern(ガバナンス)”が独立した第6機能として追加された。
これは極めて象徴的であり、
セキュリティは「技術部門の問題」ではなく、
組織としての方針決定・責任分担・文化の問題である
という時代認識が明確になった。
(2)規模を問わず適用可能に進化
中小規模事務所でも、「自社の状況に合わせて段階的に取り組める」ように構成が整理されている。
小規模事務所向けの運用例・プロファイル作成がしやすくなったことは大きな進歩である。
(3)外部委託・サプライチェーンリスクへの比重が増大
特に2.0では、「サプライチェーンの安全性」が強調されている。
外注先・システム提供者・下請けなどの安全性が、自社の安全性に直結するという考え方である。
3. サプライチェーンリスクと専門職の責任
どれほど内部の対策を強固にしても、取引先や協力企業の弱点を突かれれば、結局は同じリスクに晒される。これがサプライチェーンの「連鎖としての弱点」であり、CSF 2.0 が強く指摘する点でもある。セキュリティはもはや一組織の内部対策だけで完結するものではない。
4. 速やかに実践すべき“4つの基盤”(CSF 2.0準拠)
以下は、最も優先的に整備すべき最低限の基盤である。
4-1. 可視化(Identify)
最初の一歩は「棚卸し」である。
- サーバ
- NAS
- PC / モバイル端末
- ルータ / ファイアウォール
- VPN / リモートアクセス
- メールシステム
- 外部委託先
- 全アカウントと権限
これらの全体像を把握しなければ、どの対策を講じるべきか判断できない。
4-2. ガバナンス(Govern)
CSF 2.0における最も重要な部分である。
- セキュリティ方針
- 権限と責任の範囲
- 外部委託先との責任分界点
- 年次ではなく継続的なトレーニング
- インシデント時の意思決定構造
特に「誰がどの段階で判断するか」を明確にすることは、Respondフェーズの混乱を防ぐ。
4-3. アクセス制御(Protect)
特許事務所における最も基本的な防御である。
- 通常業務アカウントと管理者アカウントの分離
- 日常的に管理権限でログインしない
- 全経路にMFAを強制(メール・クラウド・VPN等)
- VPNアカウントの棚卸し
- パスワードポリシーの策定
- メールのSPF/DKIM/DMARC対応
4-4. 検知(Detect):セキュリティ対策の成熟度が最も表れる領域
(A)ログの一元化(Centralized Logging)
サーバ、NAS、VPN、メール、PC、ネットワーク機器のログを1箇所に集約する。集約手段は問わない。商用のツール・サービスを利用してもよいし、自前でログサーバーを運用してもよい。
集中管理のメリット:
- 異常の早期発見
- 事務所全体の動きの可視化
- 監査証跡の確保
(B)重点的に監視すべきイベント
- ログイン失敗の連続
- 地理的に不自然なログイン
- 設定変更・権限変更
- VPN/IPSec の異常再接続
- メール転送設定の変更(極めて重要)
- 深夜帯の不審アクセス
(C)通知(Alerting)
一定の条件に達したら、セキュリティ担当者へ自動通知する仕組みが必要である。
ようするに、インシデントの兆候に気づける体制を構築することが重要である。
5. インシデント対応(Respond)
多くの組織で「インシデント対応手順書」が複雑化し、実際には使われないという問題が起きている。
本当に必要なことのみをまとめた紙1枚のフローチャートで十分である。
記載すべき事項:
- 誰が判断者か
- どのシステムを切り離すか
- 外部連絡先(ベンダー、警察サイバー窓口、弁護士)
- 内部連絡の順序
目的はただ一つ、
初動5分の混乱を防ぐことである。
6. 復旧(Recover)
復旧可能性(Verifiable Restorability)はCSF 2.0で強調される概念である。
(1)バックアップの多層化
- オフサイト
- オフライン
- バージョン管理
- 隔離構造(immutable storage)
(2)復元テストの実施
「バックアップがある」ことではなく、
「実際に復元できるか」こそが重要である。
7. “今日からできる10項目”
- 全外部アクセスにMFA導入
- SPF/DKIM/DMARC設定
- 管理権限の分離
- すべてのVPNアカウントの棚卸し
- 未使用アカウントの削除
- ログの集中管理
- 月次ログレビュー
- 復元テストの定期実施
- 一枚紙のインシデントフロー作成
- 外注先との責任分界点の整理
これらは決して難しくない。
8. 専門職としての倫理と社会的責任としてのサイバーガバナンス
特許事務所・法律事務所は、社会の知識基盤を支える重要な存在の一つである。だからこそ、サイバーセキュリティにおいても、高い基準を率先して示す責務があると思う。CSF 2.0 は、そのための優れた地図であり、規模を問わず導入可能である。自社だけでなく、サプライチェーンやパートナーを含む「信頼の連鎖」を守ることは、知識社会全体の安全性向上に寄与する。
専門職としての倫理を果たすためにも、今後も継続的にガバナンスを強化し、業界全体で成熟度を高めていく必要があると考える。
本稿がサイバーセキュリティー向上の一助となれば幸いである。